シャミナード神父(創始者)

(カトリックマリア会ホームページからの引用)

シャミナード神父は1761年4月8日、フランスの南西部の町ペリグーに生まれました。ムシダン小神学校、次いでボルドーやパリで学んだ後、1785年、司祭に叙階されました。しばらくムシダン小神学校で教鞭をとりましたが、1789年にフランス革命が起きたため、ボルドーに身を隠しました。

 

1790年、政府に服従させる「聖職者市民憲章」宣誓を拒否したため、シャミナード神父は官憲の目を盗みながら司祭職を遂行しなければなりませんでした。1795年、カトリック教会に対する迫害は一時期下火になりましたが、1798年には再び迫害が始まりました。このとき、シャミナード神父の存在はすでに公になっていたため、亡命を余儀なくされました。

 

シャミナード神父は亡命先としてスペインのサラゴサを選びました。そこにはすでに多くのフランス人司祭がいたことと、聖母マリアに献げられた「柱の聖母聖堂」があったためです。彼はここで3年間過ごしましたが、この間、祖国にキリストを復興させる方法について同僚司祭たちと相談し、計画を巡らしました。ついにある日、シャミナード神父が聖母マリアのご像の前で祈る間、「マリアニスト家族」の設立と「死なない人のグループ」すなわち男女修道会の創立霊示を受けたと言われています。

 

1800年秋、帰国したシャミナード神父は直ちに若者を集めました。若者は善意と熱意に満ち、情熱に溢れてシャミナード神父に協力しました。恵まれない子どもを教え、貧困者や孤独な人を助けることに力を注ぎました。まさに福音の実践を表明したのでした。多くの賛同者が現われ、12月8日には「コングレガシオン(聖母青年会)」を結成することが出来ました。この聖母青年会こそがマリア会と汚れなきマリア修道会設立の母体となるものでした。このときシャミナード神は39歳、働き盛りでした。

 

1809年には社会で生活しながら神に身を捧げる在俗修道者のグループ『アリアンス・マリアル』が誕生しました。更にシャミナード神父はラムルス女史(1754-1836)を指導して、婦人の更生を目的とした『ミゼリコルド会』の創立にも関わりました。

※さらに詳しくお知りになりたい方は、「ギョーム・ヨーゼフ・シャミナード伝」(全38章、629頁)をご覧ください。

ギョーム・ヨゼフ・シャミナード伝
マリア会 第4代総長 ヨゼフ・シムレル師 著
(ボルドー大司教ルコ枢機卿の書簡の序文添付)
ギョーム・ヨゼフ・シャミナード伝.pdf
PDFファイル 3.6 MB

修道女アデル(列福者)

アデルはフランス革命を目前に控えた1789年6月10日、フランスのアジャンからあまり遠くないフガロールに生まれました。

父親のシャルル・ド・バッツ男爵は、フランス王の近衛隊長を勤め、
母親は聖ルイ王の血を引く貴族でした。

1797年、アデルは母親と共にスペイン、次いでポルトガルに亡命します。
1801年、アデルはスペインのサンセバスチャンで初聖体を受けますが、この時すでに神の呼びかけを感じてカルメル会入会を希望しています。しかし、まだ若すぎました。

1801年、家族はフランスに戻ってきます。
1803年、アデルは堅信の秘跡を受けると、ますますカルメル会への夢をふくらませてゆきます。
入会を待ちながら1804年、友人と共に、祈りとキリスト教の信仰を広めることを目的とした“小さな会”を作ります。
これはボルドーのコングレガシオンと非常に性格が似ていました。
1808年、ボルドーのコングレガシオンとの摂理的な出会いの後、アデルとシャミナード神父との間に手紙の交換が始まり、やがてアデルの“小さな会”はボルドーのコングレガシオンに併合されます。

病気の父親の看護を続けながら、アデルは次第にカルメル会とは異なる新しい形の修道生活に思いをはせてゆきます。 
1815年、父親が亡くなると、翌年の1816年、アデルはついにシャミナード神父の協力の下に“汚れなきマリア修道会”を創立しました。

新しい修道会の目標は宣教です。シャミナード師は書いています。「あなた方の修道会は宣教修道女のみで構成されなければなりません。」(1815.10.3)

 

(注)アデルの名前は、アデル・デ・トランケレオンから、マリー・ド・ラ・コンセプションへ改名されました。